2013年1月12日

すでに二十年以上も前から、書くべき物語とその周辺における脱出の運動を見失った小説家が行きつくのは、様々な物語の断片をコラージュとして繋ぎ合わせた一枚絵であり、それによって「小説」はわずかながら延命されるだろうという予測がある(蓮見重彦著「小説から遠く離れて」内))。確かに、最近出版されたこの「民宿雪国」という「小説」は、(作者の意図はどうあれ)その予測に従って、戦後日本に実際に起こった様々な事件を題材に借りたコラージュによって一人の国民的老人画家の像を構成し、それを読者の前に提示している。「物語」はこの老人画家を巡るルポタージュとして構成されるが、結論から言えば、それはさして新しくもない「叶わなかった過去の恋の物語」である。帯の売り文句は、殊更に(当然売らねばならないので)この「小説」に賛辞を贈るが、そのほとんどは見当違いである(と偉そうに言ってみる)。この「小説」は、むしろ、それが「小説」であらざる点においてこそ注目されるべき作品であるように思われる。

 蓮見重彦の分析に倣って、この本に書かれた物語を(やや強引かもしれないが)説話論的構造へ回収することを試してみると、主人公・丹生(にう)の取りこまれた場所は、旧日本軍をその「父」とし、慰安所で出会う朝鮮人の女性をその片割れの双生児(妹)として持つ倒立型のエディプス三角形(父―ボク―妹)である。しかし、最後には恋人の信じ難い裏切りによって丹生自身が軍に売られることで、全体の構造を否定的に保存する結果となる。こうして、丹生の「宝探し」は未遂に終わるのである。

ところで、この「小説」では、時間軸に沿ってもうひとつの逆エディプス三角形が語られている。それは、本編であるところの、国民的画家・丹生雄武郎を巡るルポタージュである。一人の作家の独白という形で語られるこのルポタージュは、丹生の詐称に満ちた人生についてのものである。この物語についても、「父」たる頂点としての丹生と、「宝探し」を開始している作家という縦の図式が成り立つ。蓮見重彦が例の著書で、七十~八十年代のある時期の小説について示したところによれば、「物語」を進めるためには、主人公は性的な「励まし」を必要としており、それは主人公の双生児(片割れ)であるところの、異母兄弟や戸籍上の妹、ないしそれに類するものによって与えられる。このようなものを期待して読んでいると、実は、この作家というのが「両性具有」であり、一人で双生児の役割を担っているという設定が現れる。このことから推測するに、筆者は、蓮見重彦の言っていたような(そのままではないにしても)社会に蔓延った説話論的構造の気配を敏感に感じ取っており、いずれそこからの脱出について何らかの回答が示されるのであろうという期待が、読者に与えられる。このように、本作の著者が説話論的構造に意識的であるという仮説は、他の部分からも補強することができる。「父」たる丹生が抱えている「真実」というのは、冒頭から匂わされているように、今の日本の根底を揺さぶるような何か、である。それは「業」とも、あるいは「権力」とも呼べるものかもしれないが、結果的にその具体的な部分というのは最後まで明らかにされない(あるいは、直接的には語られない)。丹生は、古びた民宿「雪国」で、その継承・委譲の時を待っている。作家が丹生の下を訪れ、自らの運命を告白するまで、多くの者が丹生のもつ「真実」に触れる機会があったのだが、彼らは作家のような物語的機能(両性具有)を持っていないがために、悉く丹生によって殺害されてしまう。その間、物語は全体のディティールを与えこそするが(それは例え後から語られようともそれ以上の意味を持ちようもない)、まったく進展の兆しを見せない。物語が動き始めるのは、丹生によって(その真意とは別のところで)生きる意欲を得た作家が、身体的な性転換を行い、自らの内と外が完全に一致した瞬間(「双生児」の機能の発動)からである。この転換点があまりにも明確に設定されているがために、やはり作者は、説話論的構造を意識し、故に、当然そこからの脱出を狙っているのだと読者を確信させる。

作家が丹生と面会するとき、丹生は「父」たる所以、つまり、「宝」であるところのその人生について語り始る。もしここで、それがそのまま「真実」であるならば、やはりこの物語は丹生の抱える闇(それは見方によっては旧日本軍の犯した悪事、国家というものが国民に隠していた真実、といったものの告白として受け取れるかもしれないが)を作家が受け継ぎ、新たな「父」の役割を演じることで元の説話論的構造を維持するだけのことである。しかし、臨終の際に丹生の語る言葉には、明らかに真実と虚構が入り混じっている。丹生との対決の前に置かれた章の中で、作家は「客観的な事実のみを述べる」と断った上で、多くの証言者を引き出して丹生の人生における詐欺・詐称を暴いているのだが、ここに書かれた客観的事実であるはずのものと、丹生の語るそれはついに全く同じというわけではない。その詐称を示された事実が、改めて「真実」として丹生の口から語られる。同じ口から、作家の知りたかった「その女性」にまつわる「真実らしき」物語も語られる。こうして丹生の言葉が進むにつれ、虚・実の線引きはますます困難になっていく。これは、明らかに意図的な展開であるだろう。

このとき、説話論的構造であるところの元の(逆)三角形はその形を崩してはいない。なぜなら、丹生は未だ「父」として振る舞い、その「真実」を双生児たる作家が「聞く」ことで「権力の委譲」が行われつつあるからである。しかし、曖昧になった虚・実の線引きは、この「真実」の「真実」たる根拠を失わせ、そのために、説話論的構造の輪郭は徐々に霧の中へと覆われていく。そのとき、読者は気がつくと自らが先ほどまで収まっていたはずの説話論的構造の外側にあることを感じる。それは、急に足元の地面が消え失せたような、薄ら寒い浮遊感を帯びたものだ。そこは、現実における「虚」と「実」が無方向に行き交う「交通」の地点である。かつて、中上健次が「枯木灘」において試みたのは、説話論的構造からの自覚的な脱出であった。「枯木灘」の主人公・秋幸は、自らを日雇い人夫の土方仕事の中に埋没させ、土を右から左へ運ぶ「交通」の地点として存在した。そこには「外部に触れる」としても、その「実感」めいたものがあった。しかし、この作品において読者(=作家)は、無自覚のうちに「交通」の中に投げ出される。そして、そこに「外部に触れる」という「実感」は皆無である。代りに、「何か得体のしれない物が自分を包んでいる」という「気味の悪さ」だけが残る。これが「浮遊感」の正体である。そして、このような「気味の悪さ」が、我々が今の現実社会に感じているものと繋がっていると言ったとして、それは果たして的外れと言えるだろうか。こうした理由で、「民宿雪国」は、新しい「小説的」な視点を示して見せたと言えるのではないだろうか。

 ところで、「触れる」ことと、「包まれる」ことと、どちらがより「外部」に近づいたと言えるだろうか。説話論的構造がその姿を現して随分経ち、三十年余りの間、我々はもがきながらも前進を続けていると信じたい。もし、今新たに示された地点が以前と同じだと言うのなら、もがき疲れて酸素を失い徐々に薄れていく意識の中で、同じ夢を繰り返し見続けることしか、この苦しみを紛らせる方法がなくなってしまうのだから。